「死にたい奴は死なせておけ。俺はこれから朝飯だ」

 はじめにお断りしておきます。このタイトルは最近ネットで知り合って亡くなった方々にむけての言葉では決してありません。その方々のご冥福をお祈りし、ご遺族の方々へは心の底からお悔やみ申し上げます。
 白土三平さんに『忍者武芸帳』という名作があるのを、みなさん、とくに若い人たちはご存じでしょうか? わたしは大島渚監督が映画化されるのをきっかけにこの劇画を読みました。映画『忍者武芸帳』で記憶に残っているのは編集のすばらしさだけ。(編集なさったのは浦岡敬一さん)封切りはGoogleでネット検索したら1967.02.15とあります。わたしはそのとき18歳でした。映画がきっかけで原作を読んだのですがいまだに忘れられないのは唯一「地走り」のくだりです。
 ネズミは繁殖しすぎると、本能から自分たちで集団をなして海に突っ込んで行く。わたしはネズミの集団自殺がほんとうにあるのなら、それは人間についてもあてはまるかも知れない。そう考えて身の毛のよだつ思いがしたものです。
 最近不思議なことが原因で死ぬ人が多いですね。亡くなった方とそのご遺族にたいして不謹慎なもの言いになってしまうことを覚悟して言うと、わたしは上に書いたネズミの「地走り」のことをつい思いおこしてしまいます。
 冷戦が終わり世界秩序がくずれて日本はいまや流動化しつつある、などとは言い古されたことですがわたしは日本は「本当にヤバイ」と感じています。そこでわたしたちにできることは何なのでしょうか? 目で見たり手で触ったりできる範囲に限られますが、思い上がりだと他人から誹られようが何を言われようが自分たちの身のまわりで起きそうな「地走り」の予兆は身を挺して止めると強く意識すること。これしかないように思えます。
 タイトルの「死にたい奴は死なせておけ。俺はこれから朝飯だ」という言葉はたしか故・吉行淳之介氏が出版社の出す小冊子のアンケート「わたしの好きな言葉」で紹介なさっていたと記憶しています。孫引きばかりで恐縮ですが、五木寛之さんがドストエフスキーの小説の登場人物が「隣町に戦火がおよぼうともわたしはいま目の前にある一杯の紅茶を楽しく味わいたい」という意味のことを言っていると何かにお書きになっていました。共通するのは、獰猛というか、ふてぶてしいというかとても強靱な精神(自我と言ってもいい。しかし、「わがまま」とか「自分勝手」というものとはまったく違う)がこれらの言葉の根底にあるようにわたしは感じます。
 わたしは「自分の子供に限って」そんなこと(ここ十数年間に起きたじつに忌まわしい事件の被害者、加害者に子供たちもわたしもどちらにもなり得るのです)はしない、などと決して思いません。我が子がいちばん怪しい。それ以上にわたしはもっと怪しい。
 十何年前になりましょうか、サカキバラが小学生の首を切りました。
 わたしの二男もその時小学生でした。毎朝家を出るとき二男に「首を落とされないように気をつけろ! もし油断してお前の首が校門の前に転がることがあったとしてもお父さんは悲しむだろうがそれ以上ではない。なぜならお父さんの哀しみは誰の助けも借りずに自らで断ち切るしかない。お父さんはお前の首をはねた奴とその両親を殺すだけのこと。リンチは法律で禁じられている? そんなものは関係ない。法律があって人は生きるのではない。人間あっての法律なのだからそんなものは無視! 」と訳の分からないことを言って息子に嫌な顔をされたものです。
 わたしが言いたいことは「口先だけでなく、命を賭けてまわりの人にもっと干渉しないといけない」ということのようです。いまのままの生活が維持できなくなることが人生の最大のリスクだと勘違いしている人が多すぎる。人はけっしてパンのみに生きるものではないとむかしから言うではありませんか。
 安い発泡酒二缶。そしてチープなカリフォルニアワインをたらふく飲んでいまいい気持でこの記事を書いています。あす朝、読み直したら、わたしはきっと穴があったら入りたい気持ちになるのでしょうが、やむにやまれず、きょうもまたつまらないことを書きなぐってしまいました。
 と、10月15日の午前3時に書いたものを7時間経過して読み直すと多少バツの悪い思いもしますがわたしの本音なのでブログに載せることにします。
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by hiroto_yokoyama | 2004-10-15 10:23 | ブログ
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