島田雅彦氏の文芸時評でお勉強

 朝日新聞の夕刊に『「私」の果て』という見だしの文芸時評が載っている。
 書き出しを引用させていただく。
 「誰がいったか、日米無関心同盟。携帯電話やネットでつながる相手と自分が出歩く町が世界の全(すべ)てであるような人々にとっては、新聞記事の大半は自分には無関係であろう。他国の死者と自分を関係付けて考えることができる者はごく少数だ。……」
 わたしは「そうだよなぁ」と思ってこの全文を読んだ。
 「知識人たちの自意識を映す鏡としての小説はもはや廃れてしまった…」と最後のほうに書いてある。「なるほど」と思う。そうだよなあ。やはりそうなのか。
 「英雄やならず者の時代が終わり、代わりにありふれた市民が主役の座に就く。それが近代文学である
 そうそう、それで?
 「その近代文学を象徴するジョイスの『ユリシーズ』では、古代ギリシャの英雄の波瀾(はらん)万丈の物語がビジネスマンの一日の記録に変わる
 わたしはそんなことを文学ではなく映画でやろうとしているのかも知れない。きっとそうだ。しかしそんなものを映画にしても誰が見る? 見る人などいやしないのではないか。「何を考えているかわからない怪しい隣人たち」に向けて他者と「自分を関係付けて考え」てみてもしようがない愚をわたしはもっともっと悟るべきだ。島田氏の小説でも本気で読んで勉強し直そう。
 そう考えながら、わたしがやりたいことはわたしにとってわたしは何ものか、わたしと社会、家族や異性とわたし、20代のころ吉本隆明氏の著作集を読んで知った人間にとってだいじな「関係付け」の作業。それをやめる気はない。恐らくほとんどの若い人たちはこのブログとわたしを「年寄り臭い」ときめつけるかも知れないがわたしは若者にすりよる気持ちなど小指の先ほどもない。サライ(雑誌の名前)世代だがわたしは年寄り臭い息を吐くことは死ぬまでないだろう。(あ、これは関係ないか! )
 みなさんは、どう思いますか?
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by hiroto_yokoyama | 2004-11-22 19:11 | ブログ
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