保坂和志『小説の自由』を本屋へ買いに走る

 あさ新聞(讀賣)を1枚めくると右下に「新潮社の最新刊」が目にはいった。なにげなく目を下ろすと『小説の自由』が見えた。つぎに保坂和志という著者名。「あ、保坂というと木田元『反哲学史』の解説を書いた人だ」とひらめいた。
 その「解説」にわたしは赤線を引いている。
「…どれもその著者が専門にしている哲学者の立場によって書かれているために、新書レベルの哲学入門書は、じつはいくら読んでも、〈存在〉なり〈世界〉なりについての見通しがよくはならない。」
 この部分にわたしは同感だ。上の文が書かれている「1 長い前段」の末尾は
「…〈疑問〉が〈悩み〉と別のものであることがはっきりとわかってくるはずだ。」
 となっている。わたしはこの部分を読んだとき、「誰も〈疑問〉と〈悩み〉が同じものと言っていないのに変なことを言う奴だ」と違和感をもった。さかのぼってみると前のページに
「…哲学に〈私〉とか〈人生〉とかの解決を求めるのが、そもそも間違いなんじゃないかということがわかってくる。」とある。ここにも違和感。「だれも私とか人生とかの解決を求めてなどいない」
 解説の最後にはカッコして小説家と書いてあるが、この小坂和志という小説家は「もぐり」に違いないと確信していた。(「もぐり」と言ったから否定的にこの人をとらえたのではない。興味をもったのだ)
 もぐりの小坂があの新潮社から『小説の自由』などと気の利いたタイトルの本を出したのか、そう思い目をこらした。
もう、この本なしには小説を考えられない。」という宣伝につられた。もう少し小さな活字で「自作を書くのと同じ注意力で、実際の作品を精密に読んでみせる驚くべき小説論。」と書いてあるのを見てわたしはたまらなくなった。保坂和志の顔写真まで出ている。なんだかわたしに似ていて嫌な感じ(記念に新聞広告の保坂の顔を携帯のデジカメで撮りました)がするが、急いで街に出た。
 税務署でひとつ用事をすませて行きつけの本屋に急ぎ、店員に『小説の自由』のありかをたずねてこの本を手にしてみた。装丁がなんだか受験参考書みたいだし書き出しがいい。「私にとって小説とは「読む」もの「書く」ものであると同時に「考える」ものだ。私は読んだり書いたりする以上に、小説について考えることに時間を使っている。」
 「小説」を「映画」にかえればわたしと同じだ。この本はなにか役に立ちそうだ。むすびに著者が小島信夫氏からもらったハガキに書いてあった文章を引用している。
いまの自分が小説を書いていなくても、このような本(ゴダール『映画史』のこと。横山)を読んでいろいろ考えをめぐらせるのは、小説を書くのと同じことだと思います。」
 ここ数年数百円の古本か新刊でも文庫か新書しか買わない(買えない、というのが本当)わたしにはめずらしく思い切りよく1700円+消費税をはたいてこの『小説の自由』を購入したしだいなのだ。
 カバーの裏の経歴を見て保坂和志が『この人の閾(いき)』で芥川賞をとった小説家だったと知り「もぐり」などと思ってしまった不明をわたしはいま羞じている。同じような顔をした年下の作家の本を読んで受験でもするつもりで勉強をしようと考えているところです。
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by hiroto_yokoyama | 2005-07-01 18:20 | ブログ
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