『お友達になりたい』までのこの9年 1.

 『眠れる美女』を公開したのは1995年10月14日(於、テアトル新宿)。まえにも書いたがわたしの期待に反してこの映画は大コケにコケた。映画監督としてわたしは再起不能である。初日(14日)の上映が終わり、車でひとり首都高速で浦和の家に帰宅途中、何十年かまえボクシングの大場というチャンピオンがこの首都高でなくなったなぁという想念がうかんだ。「だから、どうした? 」「大場選手は事故だったが、俺もこの際ひと思いに」などと自問自答してステアリングを握っている自分が恐かった。
 つぎの日の朝、わたしはもうケロッとしてこれから打つ手を考え出していた。こうなれば「故郷に錦を飾る」という言葉もある。飯塚市には父から相続した土地3万坪をわたしはもっているのでいくらバブルがはじけたとは言え、飯塚市を巻き込んで一旗あげられるのではないか。日本中の地方都市の財政はどこもかしこも青色吐息。飯塚市も同様。アメリカではITバブルの真っ最中。日本もそれに追随しようとしている。わたしは飯塚市の足もとを見たつもりになった。
 わたしは出身地の飯塚市にデジタル映像の制作拠点を作りませんかと「新映像都市構想」なるものを提案した。敵はまんまとわたしの口車にのったとはじめは思えた。「事業化策定委員会」の予算がついたのである。しかし、それも最初だけ。敵はわたしなどより1枚も2枚も上手だった。「役所はすべてペーパーで動きます。前例のないことはしないし、できない。法律にないことはやってはいけないのです」とのらりくらり。2年たつと事業化策定員会はピタッと音無し。行政はうやむやにしてしまう天才だ、と痛いほど思い知らされた。
 藤川美和という女性がいた。彼女は飯塚市にある某大手家電&AVメーカーの中央研究所直属の研究所で働いていた。わたしは高校の同級生が飯塚市の助役をしていたとき彼の紹介でこの研究所の所長を知っていた。所長も事業化策定委員会のメンバーだったので、しょっちゅうわたしは研究所へ出入りしていた。藤川はわたしの構想に異常なほどの関心をしめし、行政が動かないならわたしの構想を実現させるべく会社を辞めて手伝いたいなどと言い出して、わたしがとめるのも聞かずほんとうに家電&AVメーカーを退職してしまったのだ。
 わたしもいけなかった。研究所ではじめて彼女に会ったとき「あ、飯塚の田舎にしては珍しく可愛いひとがいる! ぼくの映画に出ませんか」などと軽口を叩いて彼女の気をひいたのだ。所長はハラハラしながら「また、また。監督は口がうまいんだから」と言いつつこの職場のアイドルがおだて上げられるのをまんざらでもなくそばで見ていた。
 藤川はわたしのその言葉を真にうけてしまったのだ。
 ときはあたかもITブーム。ベンチャーが上場したときのキャピタルゲインを目当てに福岡市でも老舗のデパートの新館をインキュベーション施設にしたてあげ金儲けをしようという欲深な企業があらわれた。わたしは藤川をベンチャー企業の若き女性創設者に仕立て上げ、107社の入居希望企業のなかの数社に選ばれて家賃がタダの「ハッチェリー」と名付けられたこのデパートの新館にまんまともぐり込んだ。
 苦節3年。事業化できる気配はまったくない。こうなったら東京に出て勝負しようという意欲に欠けた映画カブレがこの地方都市・福岡にもきっといるはずだ。そいつらを騙して映画を撮ろうとハラを決めた。2001年(平成13年)の秋のことである。
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by hiroto_yokoyama | 2004-08-05 11:16 | 映画
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