『お友達になりたい』までのこの9年 2.

 じつはここで例の日本映画学校1期生のH.Y.がまたまた登場する。女房やわたしのまわりの者たちはH.Y.をわたしの便利屋としてつかうことをやめるようにたびたびわたしに忠告していた。わたしは彼を「便利屋」と意識したことなどは1度もない。H.Y.をなんとしても映画監督に仕立てあげなくてはならないという強迫観念のようなものがあったのだろう。ときどき彼に連絡していた。いつ電話してもH.Y.はなにもせず部屋にいた。あるときはシナリオもどきを書いてむこうからわざわざ持って来たりもした。読んでみるとひどい。シナリオになっていない。電話するたびに「まだ映画を諦めていないのか」と確認するのだが、返事は決まって明るく「ハイ」だった。
 このときも藤川美和に代わってベンチャー企業の経営者が必要だったのでわたしは藤川よりはH.Y.の方がマシだろうとわざわざ東京から彼を福岡に呼びよせた。アパートまで借りさせ、映画塾の準備を始めた。
 「田舎の映画カブレを騙して映画を撮ろう」などと書いたから、これをごらんになる方のなかにはわたしが金に困ってネズミ講かマルチ商法でも始めたのではないかと想像なさった人がいらっしゃるかも知れないが、とんでもない。わたしは映画塾に実体をもたせるためにまずシナリオ作りから始めた。黒澤明監督ではないがわたしはシナリオは3、4人で書くのがいいと考えている。いろいろな角度から点検できて客観性というかシナリオにより現実味がもたせられるからである。(自分だけが面白いと感じるだけではほかの人から見ると、「だからどうした? 」ととられかねないことがある。わたしはそれが恐い)そこでベンチャーをやりたいと参加してきた主婦のY.H.、東京のH.Y.、それに藤川美和とわたしの4人で原作者にことわって『お友達になりたい』をいじり始めた。
 このなかでシナリオ作りを最後までやったのは藤川ひとり。H.Y.がシナリオの打ち合わせで発言したことは1度もない。「発言しない」のではなくどうやら「できない」らしいのだ。Y.H.も不慣れもあるが、ほとんど役に立たなかった。そのかわり彼女は『お友達になりたい』への出資者第1号になり、まもなく去っていった。2001年(平成13年)の暮れに藤川がひとりで書いたシナリオが完成した。
 年が改まった2002年(平成14年)2月頃からH.Y.を事務局長にして、藤川は「主宰」などと訳の分からないポストにおいて映画塾の募集を始めた。地方都市には「東京に出て勝負しようという意欲はない」が「映画をやりたい」という人間はやはりいた。石を投げてあたれば「痛い! 」というかわりに「映画撮りてぇ」という60年代から70年代の学生運動はなやかなりしころほどではないが。
 わたしは数十名をひとりひとり面接した。最終的に厳選して15名で「ふくおか映画塾」の第1期を5月末にスタートした。スタートして驚いたことがある。事務局長のはずのH.Y.が塾生といっしょになって教室の一番前にすわってわたしが東京から呼んだスタッフの講義を楽しそうに聞いているではないか。「遊び半分」のH.Y.事務局長に比べるとふくおか映画塾の第1期生はみな熱心だった。彼らの名誉のためにつけ加えておくが「映画カブレ」はわたしの想像に反してひとりもいなかった。そのうち2名は、さきのY.H.につづいて『お友達になりたい』の製作費を出資までしてくれた。11月末に塾は終了したが、脱落者はひとりもいなかった。
 製作費は3人の出資者にくわえてH.Y.も実家と友人などから不足分を用意した。この年の暮れ『お友達になりたい』はなんとかクランクインした。しかし撮影途中に信じられないことが起こった。東京からプロのカメラマン、照明技師、録音技師の3人を呼んで『曖・昧・Me』スタイルで現場を監督のH.Y.に任せたはずなのにN.G.とO.K.ショットの判断をまったくやっていないではないか。使えないショットが使えるショットに混在しているのだ。これでは映画の撮影は終わらない。
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by hiroto_yokoyama | 2004-08-06 18:05 | 映画
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