『お友達になりたい』までのこの9年 3.

 2002年(平成14年)の暮れから2003年(平成15年)の年始ほど絶望的な孤独感に襲われたことはかってなかった。胃が痛くて眠れない日が続いた。それまで効いていた内科医の母が処方する胃薬がまったく役に立たなくなっていた。
 O.K.とN.G.ショットの混在するラッシュを見ながらなんとか撮影終了までもっていく方策を考えた。N.G.ショットはもちろん取り直し、撮っていないシーンとあわせると最低でもあと2週間は必要だ。『曖・昧・Me』のときの撮影はあさ監督の佐藤闘介がその日の撮影分の絵コンテをわたしのところへもってきた。2人で点検し、お互いが納得したら現場は全面的に佐藤にまかせた。今回も『お友達になりたい』でH.Y.と同じことをやるはずだったがH.Y.がそれを怠った。
 年末年始の4、5日を使ってH.Y.とわたしはロケ現場をすべてまわり、その場で芝居をすべて決めH.Y.が絵コンテを描く、そのやり方が一番いいと考えた。2003年1月1日わたしは初詣をあきらめて朝早くからH.Y.からの連絡を待っていた。ドアがコトンとなりメモが投げ入れられた。見ると「きょうは1日ひとり部屋で絵コンテを作ります」と書いてある。H.Y.はどうしたら映画が撮れる(監督できる)か、絶対に撮りきるというハラがまだすわっていない。分からないところがこいつには分かっていない。予算的にもスケジュール的にも、もうH.Y.が監督するのは絶望だ。わたしはリングにタオルを放り投げるしかなかった。
 『お友達になりたい』を空中分解させるわけにはいかない。こうなればわたしが自分で撮るしかないか? しかしわたしは恐かった。わたしのやり方でわたしが撮れば、金がかかる。そんな金はない。1月8日上京してピンク映画の監督、荒木太郎氏に会って、制作主任とチーフ助監督を紹介してくれと頼んだ。ピンク業界も人材不足で紹介できる人を自分は知らないという。もう少し待ってくれと言うのでわたしは待つことにした。
 ふくおか映画塾の連中はどんどん脱落していった。全員映画のプロではないし、ほかに仕事があり生活が成り立たなくなる。脱落者を誰も咎めることなどできない。出資者のひとりY.K.(塾生)にわたしはなんども相談した。彼はまだその時点で金を出していなかった。「こういう状態になっているが、まだ金を出す気があるか? 」と問うと「もちろんです。このままでは引き下がれません」と応える。「じゃキャストはひとり藤川だけを残し、荒木氏に監督をお願いするという案はどうだ? 」とぶつけたら電話のむこうのY.K.は反応した。Y.K.は「とても面白いと思います」と言う。じつはわたしはY.K.が荒木太郎監督のファンであることを知っていた。
 1月下旬わたしは福岡へ行き、福岡ロケの準備をしている荒木氏にY.K.と会った。そこでY.K.と2人で荒木氏に『お友達になりたい』の監督を正式にお願いした。
 3月末から4月アタマにかけて荒木太郎監督で『お友達になりたい』を全面的に撮り直した。映画が完成したのは9月14日。福岡でお披露目試写をやったのは9月19日。その2日まえの17日の昼間さいたま市のクリニックの先生から携帯電話に電話がありわたしはその時ガンの宣告を受けた。試写会はあさって「ぎりぎりセーフ」だとわたしは思った。
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by hiroto_yokoyama | 2004-08-07 08:17 | 映画
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