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イングリット・バーグマンとロベルト・ロッセリーニ

 「ネオリアリスモ」という言葉を聞いたことがありますか? わたしは日大の映画学科の学生の頃その言葉を知りました。ヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』などもその系列の作品なのでしょうか。(デ・シーカの『ひまわり』を是非見るようにと言って死んでいったガールフレンドの顔が思い浮かびます。しかし未だにわたしはソフィア・ローレンが好きではないので見ていません。「スイカのようなおっぱい」のクラウディア・カルディナーレは大好きですが)
 映画の勉強のため『自転車泥棒』のDVDは持っているもののパッケージに「敗戦直後のイタリアで生きる貧しい親子の物語」とか「父親と息子の絆を描く、映画史上不朽の名作!」の文句があるためにいまだに見る気がおきません。(貧乏な親子の話なら『チャンプ』が最高)
 今回、思い切ってネオリアリスモの巨匠ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』のビデオを図書館から借りて見ました。戦後3部作の2本目『戦火のかなた』もきょう見ました。『ドイツ零年』は予約中。
 『無防備都市』のパッケージの解説を読んで知ったのですが、イングリット・バーグマンはマンハッタンの小さな劇場でこの映画を見て感動し顔も見たことがないロッセリーニに手紙を書いたそうなのです。バーグマンの入れこみようはすごくてこの監督と不倫の子までなしたそうです。驚きました。
 あのヒッチコックも手を焼いた(? )美貌の女優・バーグマン。骨太で大味な感じのこの女優はわたしの好みではないのですが『無防備都市』も『戦火のかなた』も見終わって突き上げてくるものは確かに強烈でした。彼女の気持ちも分ります。
 ロッセリーニの千分の一ほどの才能もないわたしですがそれでも拙作『純』を見て何人かの女優がわたしにアタックしてきました。誰と誰ですって? それは言わぬが花です。そんことよりもみなさんも是非ロッセリーニの映画を見てみるといいですよ。
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by hiroto_yokoyama | 2006-12-24 21:27 | 映画

「地方議会の議員はみな無報酬でやれ」

 フジテレビ「報道2001」が久しぶりにおもしろかった。田中前長野県知事、自民党広報担当片山さつき、民主党河村某議員の3人のゲスト。竹村健一氏の明るい笑顔。見ていた人なら分るだろうが見出しのように地方議員をみなボランティアにする(外国なら当たり前というのをわたしは知らなかった)くらいのことは、落ち目の早口首相にでもやることのできる構造改革なのだ。
 定年まじかの団塊世代どもが老後のテーマにすべき興味深い提案がなされたと思うがいかがか。
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by hiroto_yokoyama | 2006-12-24 09:09 | ブログ

ジャン・ベッケル『ピエロの赤い鼻』はとてもいい映画だ

 ジャン・ベッケルといえば言わずと知れたあのジャック・ベッケルの息子。ジャック・ベッケルを知らない人は多いかも知れない。『現金(げんなま)に手を出すな』『穴』等わたしの大好きな映画を撮った人。その息子。日本の深作健太とは大違い。
 『ピエロの赤い鼻』のプロデューサーはルイ・ベッケル、オールシネマhttp://www.allcinema.net/prog/index2.phpを見るとどうやらジャンの息子らしい。ジャック、ジャン、ルイと親子三代にわたる映画一家。うらやましい。
 で、かんじんの『ピエロの赤い鼻』は地味だが見終わって涙が出そうになった。日本では撮れそうもない。このような映画に制作費を出す奴はいない。落ちついてジャン・ベッケルは撮っている。わたしにはまねが出来ない。
 そんな訳できょう一日はいい日のはずだったが『ウェブ人間論』を読んでいたら平野某の人間的な幼さと「こまさ」(小さい)にあきれ、がっかりし途中で放り投げて頭に来ている。梅田望夫『ウェブ進化論』はこのブログでもほめたことがあるが対談の相手・梅田氏があまりにもかわいそう。自業自得か。この本はすぐに古本屋に持って行きたいものだ。
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by hiroto_yokoyama | 2006-12-23 20:55 | 映画

フロイト『メドゥーサの首』

 岩波書店『フロイト全集』第17巻371ページ、須藤訓任(すとう のりひで)訳より部分的に引用させていただく。
「…メドゥーサの、恐怖を惹き起こす切り首については解釈が試みられてよいだろう。
 首の切断=去勢
。…それまで去勢の脅しを信じようとはしなかった少年が女性器を目にすると、それがきっかけとなる。女性器とはおそらく、毛にくまどられた成人のそれであって、結局のところ母親の性器である
 芸術がメドゥーサの髪の毛を蛇として造形することが多いのは、蛇もまた去勢コンプレックスに由来しているからである。…
 メドゥーサの首の光景は観察者を驚愕のあまり凝固させ、石に変えてしまう。…凝固することは勃起を意味し、…観察者にとって慰藉を意味するのだからである。
 メドゥーサの首は女性器の描写を代替し
、…ラブレーでも、女にバァギナを見せつけられた悪魔は退散している。…」
 末尾にちなんで『パンタグリュエル物語』第四之書、第四七章「悪魔が、教皇嘲弄国の一人の老婆に欺かれたこと」は是非読んでみたい。
 60歳ちかくなり見る機会はもうやっては来ないだろうがわたしは「毛にくまどられた成人の」女性器を見るのがいまでも怖い。見たくない。
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by hiroto_yokoyama | 2006-12-23 05:24 | ブログ

『ブルー・サンダー』がジョン・バダムで1番好きだ

 1990年から91年にかけて文化庁の在外研修生としてアメリカに行った。成果はヘリコプターの免許を取得したこと。
 わたしは影響を受けやすいたちだ。きょう『ブルー・サンダー』を見直して確認した。
 ヘリの免許を取りたくなったのはこの映画を見たために違いない。ネットで検索したらこの作品は1983年に作られている。2、3年後衛星放送で初めて見たのだろうから90年にヘリの練習をしたときにはきっと忘れてしまっていたのだろう。
 このところバダムの映画10本を見た。以下に並べる。余計なことだが忙しい人はこの映画だけを見ればいいのではないだろうか。
   サタデー・ナイト・フィーバー (1977)
   ブルーサンダー (1983)
   ショート・サーキット (1986)
   アメリカン・フライヤーズ (1985)
   ウォー・ゲーム (1983)
   張り込み (1987)
   張り込みプラス (1993)
   アサシン (1993)
   ニック・オブ・タイム (1995)
   迷宮のレンブラント (1997)
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by hiroto_yokoyama | 2006-12-19 23:13 | 映画

吉本隆明氏の親鸞

 図書館で吉本隆明『今に生きる親鸞』(講談社+α新書)を借りた。13ページに
親鸞は真宗の始祖ですが、信仰によって僧侶であったのではなく、理念と思想がたまたま宗教の形をとらざるを得ない時代だったから僧侶であったにすぎません。また、僧侶だったから浄土門の経典を注釈したのではなく、思想がたまたま仏教の形をとらざるをえない時代だったから、仏教的であったにすぎません。」
 とあるのが強く印象に残っている。
 「浄土門」については同書11ページに説明がある。「阿弥陀仏の誓願を信じて念仏を称えれば、往生がかなえられるとする教え。浄土教系の宗派。」
 13ページから引用したつづき。
浄土門に関する限り、親鸞が仏教の終止符を打ったと言っていいのです。浄土門の思想家として親鸞は、世界的に最後の思想家でした。また、世界的な宗教者、思想家であると同時に、仏教の解体者、宗教の解体者であると言うこともできます。仏教を宗教として解体し、一種の思想運動にしてしまった人だと思います。ぼくは、だからこそ惹かれて、ずっと関心を持ってきました。」
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by hiroto_yokoyama | 2006-12-19 16:58 | ブログ

尻の穴はつまらなかった

 きのうは『SYRIANA』という凡作を見て機嫌が悪かった。きょうはミッドナイト・クロスとかいう愚作を見た。ミッドナイトとつく映画3本のなかではミッドナイト・エクスプレスが見るに値する。
 「ミ」と言えばミステリー・トレインとか言うのもあったが、2度みたいとは思わない。
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by hiroto_yokoyama | 2006-12-17 21:49 | 映画

愛欲の広海に沈没し…

 親鸞の『教行信証』という本にある言葉。
誠に知んぬ。悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。」 縦書きが出来ないのが残念。
 石田瑞麿『教行信証入門』230ページから現代語訳を引用する。
「それにつけても、しみじみと心から思い知らされる。
なんと悲しいことか。この愚禿釈の親鸞は果てもない愛欲の海に沈み、名声と利得の高山に踏み迷って、浄土に生まれる人のなかに数えられることを喜ぼうともせず、仏のさとりに近づくことをうれしいとも思わないでいる。これを恥じ、これに心をいためなくてはならない。」
 わたしは朝日新聞が大嫌いだが、部屋を整理していると五木寛之氏の「みみずくの夜メール」128が載った2005年2月28日付けを見つけた。村上豊氏の挿絵がいい。「われ愛欲の広海に沈没(りんもつ、とルビ)し」という絵のなかの字がわたしを惹きつけたのだ。
 五木氏の本文のはじめとおわり。
「親鸞のことを小説に書いてみようと思い立ってから、すでに十年以上の歳月が過ぎている。…
…親鸞を小説に書く日は、この先はたしてくるのだろうか。」
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by hiroto_yokoyama | 2006-12-15 21:04 | ブログ

高 史明(コ サミョン)『NHK人間講座 現代によみがえる歎異抄』

 講師案内には高氏について「…一九七五年愛し子・岡真史が十二歳で自死したことを契機に、深く『歎異抄』と親鸞聖人の教えに帰依する」とある。
 本文15ページには
「…何もかもが、順調に行くように見えた数年がたってのことです。私はたった一人の子に世を去られたのでした。…その子は朝鮮人の私と日本人の妻との間に生まれた一粒種でした
 …気がつくと、お棺の中の子に添い寝をしていました。…『歎異抄』の声が聞こえたのは、そのときです。自然に生きるなら、もっとも身近な者をたすけることができる──、自然に生きるなら──。私はその意識もなく、『歎異抄』にその言葉があったと、うわ言のように口走りつづけていたのでした。それが『歎異抄』との三度目の出会いの始まりです。」
 この人の情緒的な文にはちょっとまいるが143ページに興味深いところがあった。
『教行信証』に面白い比喩がありました。「空無自性」を説く龍樹は、人間とは、月を教えられると、月を見ないで、月をさす指を見ているといいます。そして、その「指」をもって、人間の世界の言葉であると指摘していました。つまり、人間とは、月を教えられると、月を指している指を見るばかりで、月そのものを見ようとしていないというのです。その指こそが、言葉なのでした。龍樹の慧眼は、まことに深いと言えます。」
 ジョン・バダムの『ウォーゲーム』をDVDで見た。前半は引き込まれたが後半がいただけない。リアリティがどんどん失われて白けてしまう。見終わって職人監督バダムも「月を指している指ばかり見ている」人なのだろうとわたしは確信した。あと1、2本この監督の映画を見たらジョン・バダムは卒業だ。
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by hiroto_yokoyama | 2006-12-05 22:24 | ブログ

『梅原猛の『歎異抄』入門』と吉本隆明『最後の親鸞』を読む

 後者の解説は「二十一世紀へむけた思想の砲丸」と題して中沢新一氏が書いている。その末尾を引用させていただく。
「…この本は宗教を扱った本のように見えて、人間の思考の普遍性に関わる本なのだ。中世という時代に親鸞ほどに深く鋭く考えた人はいなかったように、私たちの時代に吉本隆明ほど深く鋭く考えぬいた人もいない。『最後の親鸞』はその彼が、二十一世紀に向かって遠く投げ出した思想の砲丸なのである。」
 宣伝文句のように見えるが『最後の親鸞』を読んでみるとけっしてオーバーな表現でないことが分かる。同書18ページに
『〈わたし〉たちが宗教を信じないのは、宗教的なもののなかに、相対的な存在にすぎないじぶんに眼をつぶったまま絶対へ跳び超してゆく自己欺瞞をみてしまうからである。〈わたし〉は〈わたし〉が欺瞞に躓くにちがいない瞬間の〈痛み〉に身をゆだねることを拒否する。すると〈わたし〉には、あらゆる宗教的なものを拒否することしかのこされていない。そこで二つの疑義に直面する。…』とある。
 本屋でちくま学芸文庫を手にしてパラパラめくるとこのくだりが目にはいりわたしはちゃんと読んでみる気になった。図書館の本には印がつけられないのでこの本を購入してマーカー片手に読み直してみたいと思う。
 後者(PHP新書)は53ページの「親鸞のたどった足跡」と208ページ~219ページの「親鸞に関する年表」がありがたくコンビニでコピーをとらせていただいた。年表はセロテープでつないで日本史年表と見比べやすいようにするつもり。
 高校の古文の授業を思い出しながらいよいよ『歎異抄』の本文に向かい始めよう。
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by hiroto_yokoyama | 2006-12-03 10:48 | ブログ