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再びヒーローについて

 この前の記事「ヒーローとキャラクター」にさっそくコメントとトラックバックをお寄せいただいたのだが、たいへん申し訳ないことに削除させていただいた。わたしは「ヒーローの生まれにくい時代」を嘆いているわけではないからだ。その方には以下のメールを出した。

××さん。
 わたしの記事にコメントをいただいたり、トラックバックしてい
ただいたのはいいのですがちょっとズレといいますか、わたしは社
会学的にヒーロー像を考えたいのではないので2つともはずさせて
いただきます。
 うまく説明できないのですが、わたしの監督第一作『純』の準備
中どうしても「実際に痴漢行為をしている人間に会って取材する必
要がある」とわたしに迫った人がいました。わたしは『純』で痴漢
をする人間を描きたいのではないので取材はしませんでした。
 ××さんにうまく伝えられる自信がないのですが、ヒーローを自
分の中で発酵させたいので、せっかくですがはずさせていただくこ
とをご了承下さい。他意はありません。
 あしからず。
                      9月13日 横山博人

 しかし、これだけで××さんやこれを読んでくださるブロガーの方への充分な説明になっているのだろうか。わたしはいま頭を抱え込んでしまっている。
 シナリオで主人公が「やってくる」と書いてあれば、その男の顔が見えるのだが、「去っていく」と書けば、映画では男の背中しか見えない。「横切る」といえば「横顔」しか見えないのだ。どうあがいても「思い」は絵(映像)にならない。キャラクターがだいじなのは、映画では人物を文字で表現できないので、その人はどんな人か言葉ではなく「仕草」や「立ち振る舞い」あるいは「扮装」などで観客に感じさせないとならないからなのだ。
 スタンダールの『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルはフランスでは「ジュリアン・ソレルのような人」といえば練られた言葉になっているのでけっこうそれだけで通じるらしいが、「シナリオ」に「ジュリアン・ソレルのような男が向こうからやって来る」と書いても撮影できない。仕事にならない。これでは使いものにならないのだ。
 このような説明でも、まだたぶん説明になっていないのではないだろうか? こんばんわたしは眠れないかも知れない。
by hiroto_yokoyama | 2004-09-13 17:58 | ネット映画講座
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