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哲学の参考書を読んでいたらグサッときた

 ここのところ客待ちの暑いタクシーの中で貫成人(ぬき・しげと)『哲学マップ』(ちくま新書482)を読んでいる。わたしは参考書ばかり読んでいるがなぜ「哲学」が好きなのだろう?
 わたしは「生活が営まれる現実世界を一歩外から眺めよう」(同書、14ページ)という性癖が強いからだと分かった。
日常の外に半歩踏み出すことによって通常気づかない自分のあり方が目に見える。ある料理人は、煮込みの基本は「あく(灰汁)」を丹念に取ることだと言いながら、「あくってなんですか」と聞かれて答えられなかった。「不良債権」の定義ができない経済評論家、「なぜ人を殺してはいけないのか」と子どもに問われて答えることができない知識人もいた。こうした、本当は知らないのに知っていると思いこんでしまう「倨傲(きょごう、原文ではルビ)」を明らかにするのがソクラテスのやり方である。それによって逆に、実はその正体がわかっていないものにこだわり、それに駆り立てられていることも明らかになる。無闇に自分を駆り立てるものから距離をとれば、冷静になることもできるだろう。よく、哲学は何の役に立つのかと聞かれるけれども、そもそもなにかが「役に立つ」とはどのようなことなのか、それを吟味し、それによって有用性に駆り立てられた状態から距離をとるのが哲学なのである。」
 フム、フム。なるほど。わたしは分かったような気になった。みなさんはどうですか?
 ドキッとしたことが205ページに書いてあった。
その前のページ(204)に「だが、こうなると、哲学についても考え直さなければならない。だれかの思索がいくら首尾一貫していても、地域間、地域内部の多層性や複数性を前にしたとき、それを汲み取ることなく書斎で思索する「アームチェアー哲学者」のやり方には限界があるだろう。」とあるが貫成人氏はここで自分のことを言っているのか?
 「理性的人格や科学の進歩などといった近代的理念は、特定の社会形態を形成する上で好都合だった。とくに近代を支えた個人主義は、「世の中には唯一正しい思想・倫理があり、それにもとづく制度において、各人は同等の個人である」とするものだ。これはレヴィナスの言う「全体性」を形成し、それどころか、「正しい考えを自分は求めているのだから、自分と同じように考えない人々は間違っている」という考えにいたったとき、他人を殺(あや、「読み」は横山が挿入)めて平然とする集団が生まれる。…」
 ほとんどなにを言っているのか分からない。あ、わたしは「正しい考えを自分は求めているのだから、自分と同じように考えない人々は間違っている」と信じこんで毎日生きている。これはいけないことなのだろうか(わたしはそれでも考えを変える気などない)。貫氏はほんとうのところこの辺はよく分かっていないような気がする。
 それでもわたしは「あとがき」でなんども本屋で立ち読みをした『図解雑学・哲学』(ナツメ社)の著者がこの本とおなじ貫氏であると知ってこづかいに余裕のあるとき是非購入しようと思っている。
by hiroto_yokoyama | 2005-08-08 20:55 | ブログ
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