『卍』と『フリーター』のあいだ 1

 『卍』が1983年の春の公開。3本目の『フリーター』はたしか1987年秋の公開。この間、いろいろなことがあった。
 プライベートでは1982年に長男が生まれ、1986年に二男が誕生した。
 『卍』の撮影のとき、生後6ヶ月目の長男を記念に出演させたが、編集の浦岡敬一さんはそのことをご存じなく、ラッシュではそのショットが外れていた。わたしは、座興で撮ったので「あまり、いい絵(ショットのこと)じゃなかったのかな」くらいに考えたのだが、ラッシュを見たスタッフがあわてて「あの赤ん坊は監督の子供ですよ」と言ったものだから浦岡さんが慌てた。「え! あの子がカメラ見て笑ってたものだから、外したけれど監督の坊ちゃんとは知らなかった。すぐにもどします」と長男出演のショットが復活するエピソードがあったりした。
 1986年は東映から監督の話があった。『ビーバップ・ハイスクール』(原作きうちかずひろ、監督那須博之)の併映作。あたれば『ビーバップ・ハイスクール』同様シリーズにすると言うので、はりきって二男の首がまだすわらないうちに東映の寮に移り、シナリオを作り始めた。
 東映からの注文は「都会的でしゃれた映画にしろ」のたった1つ。「都会的」というのがわたしは気に入った。脇役に全共闘世代を登場させ、「都市化」と匿名性の問題にも触れてみよう。原作者にことわり、主人公の高校教師の出身地をわたしの故郷、筑豊に設定した。筑豊だから映画のトップシーンはぺんぺん草のはえたボタ山。地の底から這うように労働歌が流れる、とシナリオのト書きにある。
 第一稿があがり旅館でシナリオ・ライターとプロデューサーの3人で打ち合わせをした。わたしは絶対に都会的な映画にする自信はあったので、奈良の若草山のイメージでボタ山と言ったのに、まっすぐ「ボタ山」はまずいのではないか、インターナショナルか何か知らないが、労働歌はダビングでちゃんと入れるつもりだから、わざわざ「地の底を這わせ」なくてもいいのではないか、とためらった。プロデューサーとライターはわたしが怯んでいるととったらしく、「大丈夫だ、このまま印刷しちゃおうよ」と強く言う。
 刷り上がった台本を読んだ岡田茂社長(当時、いまは東映相談役)が激怒したらしい。伝聞だが、本社の7階に岡田社長はすごい剣幕で駆け下りてきた。多くの社員が見まもるなか製作か企画かのどちらかの部長の机に台本を叩きつけ「お前らよってたかって横山ひとり、操縦できんでどうするんだ! やめてしまえ」のひとことでわたしは東映の夏休み映画の監督を降ろされた。
 よし、ならば独力で映画を1本撮ってみせる、とわたしはそのとき覚悟を決めた。(それから9年かかって川端康成原作の『眠れる美女』を撮ったが、そのことは後に触れる)
                                 つづく
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by hiroto_yokoyama | 2004-07-28 09:42 | 映画
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