『曖・昧・Me』は1989年(平成元年)の夏休みにわたしの出身地・福岡県飯塚市を拠点に撮影した。
1987年(昭和62年)4月から日本映画学校の実習講師を3ヶ月やった。そのときわたしは生活に困っていて(そのときだけではなく、いつもそうなのだが)月に50万円という講師料につられて学校へ行った。わたしは初日から、学生たちに対してあるやましさがあった。 映画監督を夢見て、上京し運よく『純』で夢を叶えられた。映画を目指している若者たちから金をもらって、映画作りを「教え」たりするのは、どこか違う。まして生活のために教えるというのは、夢を汚すことになりはしないか。 金などとってなにかを教えるなどということはしてはいけないのではなかろうか? ソクラテスだったかプラトンだったかが同じようなことを言っているのをわたしはだいぶ後になって知った。 現実はそうかっこうよくはいかない。月々50万円もらうことでどんなに助かったことだろう。わたしは関わりを持った学生たちになにかお返しがしたかった。それは決して学生たちに授業料を返すということではない。『フリーター』と『恋はいつもアマンドピンク』を撮ったあとでもあって、わたしはなにか映画でむしょうに冒険がしたかった。卒業したての学生たちに「製作費は俺が何とかするから九州で映画を撮らないか? 」と提案し有志をつのった。監督をするのは卒業生の2年先輩の佐藤闘介と決めていた。 さいしょに名乗りを上げてきたのは卒業生のH.Y.だった。 ここまで読むと、みなさんは「カッコいい」とお感じになるかも知れない。わたしはたしかにカッコよすぎた、とその後のH.Y.との17年間のかかわりでイヤというほど思い知らされることになる。 素人集団だけでは映画は完成しない。わたしとどうよう日本映画学校の講師で関わった榊原勝巳というカメラマンに現場の中心になっていただくことをお願いし、仕上げは録音の本田孜さん、編集を浦岡敬一さんの両ベテランにお願いした。 秋に完成した『曖・昧・Me』を東宝の事業部に見せた。事業部の担当者は製作費を上回る金額でビデオ化許諾権を買う、とその場で決めた。翌1990年(平成2年)のゴールデンウィークに中野武蔵野ホールで上映したら東宝の宣伝が行きとどいていて『曖・昧・Me』はこの規模の映画としては大ヒットした。 わたしの順風満帆の映画人生は、この作品まで。その後十数年、深く静かにわたしは潜行しっぱなしで浮上したくともできないまま人生を終わるかも知れないところに今はいる。
by hiroto_yokoyama
| 2004-08-02 09:43
| 映画
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