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映画は誰にでも作られる 1.企画力

 映画会社に企画を通すとき真っ先に聞かれるのは「前売り券は何枚保証できますか? 」ということ。内容はどんなものかとかだれが出演するのかという以前に映画会社にとってはだいじな質問だ。スマップの誰々が主演で、ある宗教団体が前売り券を300万枚買い取ってくれます、と応えたら企画はいっぱつで通る。映画を作りたい人はここだけで何年も苦労して消耗する。これは企画力とは言わない。たんなる営業マターにすぎない。
 映画はアイディアだと言ったのは大島渚監督だった。もし死刑囚が刑を執行されても死ななかったらどうなるだろう? そのアイディアが『絞死刑』を生んだ。
 わたしは日大の映画学科の学生のとき友人に薦められて「キネマ旬報」に掲載された倉本聰さんの『純』を知った。一読してこれを監督したいと思ったが「自分に撮れるわけがない」とすぐに忘れた。まえにも書いたが中学校の同級生に製作費を出してもらうことになったときもなにをやったらいいのか『純』のことなど思い出しもしなかった。人に言われて、あ、そうだった「俺は『純』をやりたかったのだ。あれだけわあわあ会う人ごとに言ってまわっていたのに」ってなものだった。なぜ簡単に思い出さなかったのだろう。いい加減と言えばいい加減。だが、よく考えてみると、そういい加減でもない。
 わたしは福岡県の飯塚市から映画監督を目指して家出同然に上京してきたが、真っ先に驚いたのはあさの満員電車。混むこと混むこと、嫌になった。ある日東急の等々力駅から乗った電車で中年の「しこめ」というほかない小母さんと10センチの距離で向き合った。これまでこの距離に接近したのはいいムードになった若い女性とだけだ。おまけにこの小母さんは前の晩ギョウザでも食べたのか吐く息が臭かったから自由が丘に着くまでわたしは地獄の思いだった。こんな経験を積みかさねわたしは「東京」を肌で感じとっていたから『純』を監督してみたいときっと読んだ直後は思ったに違いないのだ。
 『卍』のときもそうだった。わたしは結婚したてで、それまでお付き合いのあった女性方とは全員いっせんを引くことを了承してもらった。それが妻に対してスジだと思った。常識だと思った。線を引くのが度が過ぎて、わたしは結婚生活がどこか息苦しくて仕方がなかったのだろう。『天城越え』を撮った三村晴彦監督は主演の田中裕子とラブラブ(三村さんだけが勝手にそう思いこんでいただけなのだが)だと告白して『卍』は「横山さんの願望なんだよ」と鋭い指摘をされたことがある。
 わたしの考える企画力とは、時代というか社会というか自分のまわりを頭ではなく肌で感じとる、全身で流れをつかみそれを映像(具体的)にできるかどうかその能力のことである。多くの人が漠然としか感じていないことを絵にする力、これが大島監督が言うアイディアなのであろう。
 これをお読みになったみなさんが日々感じていること、それを絵にするには技術がいる。それは「才能」とかではない。絶対的に「技術」だ。ただし受験勉強で整理したり分類したり丸暗記したりしすぎた頭ではこの技術を習得するのは極めて困難だと最後に申し上げておく。
by hiroto_yokoyama | 2004-08-28 23:31 | 映画
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